1928年岐阜生まれ。
1946 年に早稲田大学に入学。在学中には、全学連副委員長を務めるが、大事件の不法集会の責任を問われ除籍処分に。
1956年に岩波映画に入社し、羽仁進、瀬川順一キャメラマンらの薫陶を受ける。
翌年、退社し、羽仁進監督『不良少年』(’60)の監督補佐などを務めたのち、1963年に当時の国鉄からの要請により、安全PR映画『ある機関助士』を、さらにその翌年、交通安全PR映画『ドキュメント路上』を撮る(そのあらましは、本作『映画は生きものの記録である』で語られている通り)。
そして1965年、日本テレビのドキュメンタリー番組のため、「水俣の子は生きている」を撮るが、これは胎児性水俣病を扱った最初の記録でもあった。その後、黒木和雄監督『キューバの恋人』に製作としてかかわる一方、京大全共闘、滝田修を描いた『パルチザン前史』を1969年に発表。
再び水俣の地を踏んだのは1971年、『水俣 患者さんとその世界』からで、その後、『水俣一揆-一生を問う人びと』(’73)、『医学としての水俣病三部作』(’74)、『不知火海』(’75)、『水俣病-その20 年』(’76)と、次々に水俣病問題を告発する作品を発表し一時代を画す。
その後もドキュメンタリー映画作家として活発な活動を行い、アフガニスタンに取材した『よみがえれカレーズ』(’89)、『在りし日のカーブル博物館』『もうひとつのアフガニスタン』(ともに’03)、原子力行政と漁業者の攻防を描く『海盗りー下北半島浜関根』(’84)、オホーツクの海に取材した『存亡のオホーツク』(’94)などを発表。日本を代表するドキュメンタリストとして現在も活躍中。
そのほか、主著に『映画は生きものの仕事である』(未来社)、『わが映画発見の旅ー不知火海水俣病元年の記録』(筑摩書房)、『ドキュメンタリー映画の現場』(現代書館)など。
『映画は生きものの記録』で採り上げられている、『水俣 患者さんとその世界』『医学としての水俣病三部作』『不知火海』の3作は、水俣を扱った土本ドキュメンタリーのまさに根幹をなすと言っても過言ではないもの。事実をていねいに積み重ねていくことによって問題の核心を浮かび上がらせてゆく土本監督の方法論が、これらの作品を撮る課程で培われ完成されていったともいえる。
対象に対する過度な感傷を交えることなく、かといって一線を引いてしまうのでもなく、誠実に見つめてゆく姿勢は、水俣病という悲劇を確実に的確に知らしめるためにまず必要とされた態度だった。そのなかで、『映画は生きものの記録』にも登場する人々(すべて水俣病患者さん)との交流も生まれていったのだった。
「土本典昭の映画は古典的な、誠実なる古典的ドキュメンタリーの最後の部分を担っている」という藤原敏史監督の言葉は、土本監督への限りないオマージュであると同時に、彼自身のドキュメンタリー映画に対する決意表明でもある。
土本典昭ホームページ : http://www2.ocn.ne.jp/~tutimoto/


